原料へのこだわり

味噌の歴史
醤

みその起源は古代中国の「醤」だといわれています。
醤は、獣や魚の肉をつぶし、塩と酒を混ぜて壷に漬け込み、100日以上熟成させたもの。
今のソースや醤油と同じように使われていたようです。
紀元前700年頃の周王朝には醤を専門につくる役職があり、王家の正式な料理「八珍の美(8種類の基本料理)」には120かめもの醤が使われたと記録に残っています。
醤は大変格式の高い調味料だったのです。
紀元前1世紀頃になると、大豆や雑穀を発酵させた「鼓(し)」がつくられるようになります。

みその伝来

醤や鼓などがいつ頃、どのように日本に伝来されたのかは、よくわかっていません。
醤などの文字が、初めて登場する「大宝令」(701年)には、中国にはない「未醤」という言葉もみられます。これは醤に日本人が工夫を加えた新しい調味料で、みその前身ではないかと考えられています。
ちなみに「噌」という漢字は「味噌」以外には使われていません。みそのためだけにつくられた字です。

戦いとみそ

徳川家康は味噌汁好き

応仁の乱(1467)からの百年は、戦に明け暮れた時代。戦いに出動する者たちにとって、カロリー源の米と栄養源のみそは必需品でした。これが戦闘能力に大きく関わってくるため、軍糧にはかなりの配慮がなされたようです。米はともかく、発酵食品であるみその運搬には皆頭を悩まし、工夫をこらすようになります。また、みその重要性をさらに見直し、みその醸造法が発達した時代でもありました。
この時代を終焉に導いた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康がそろって豆みそどころに生を受けているのは偶然でしょうか? 武田信玄が信州みその基盤を作り、伊達政宗の奨励した仙台みそは、いまに至るまで造り続けられています。栄養豊富なみそが強い勢力を育み、よい「手前みそ」をもつ者が力を発揮したことがこれにより伺えます。また軍隊の移動に伴って、みそ醸造に関する知識や情報の交換も行われたと思われます。
平均寿命が37、8だった時代に75歳の長寿を保った徳川家康は、「五菜三根」のみそ汁を食べたといわれています。大根などの根菜が3種、その葉も含めた菜が5種類も入ったみそ汁は、現代の栄養論に引き合わせても一種の薬石となるもの。 このみそ汁と麦飯で健康を心がけ、人にもすすめた「権現様(家康)」 の家訓を守って、2代以降の将軍たちも食膳にはみそ汁を欠かさなかったとか。長い江戸時代、暮府の力は毎食のビタミンみそ汁がつくり出していたのかもしれません。

江戸時代

江戸時代

この時代になると、みそは現在とあまり変わらないぐらい、なくてはならない食品になっています。元禄期の江戸の人口が50万人に達しました。江戸の生産だけではみその需要を到底まかないきれず、三河の三州みそや仙台みそが海路どんどん江戸に運ばれ、みそ屋は大繁盛するのです。
また、それにつれて、みそ汁の具にする野菜売りも盛んに行われ、町中が野菜畑になったようなもんだともいわれました。ただし、「みそ買う家に蔵は建たぬ」ということわざがあるように、武士、農民、大商人は自家醸造がほとんどでした。みその販売はもっぱら庶民の生活に浸透していたかがわかります。
しかし一方では、高級料亭の開業も相次ぎ、すぐれた料理書もたくさん刊行されて、みそ料理はますます洗練されていくのです。

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